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BAYFM 番組コラボ 第3弾 TERU ME NIGHT GLAY×カフェイン 11  ロックバンドが負う“責任”と あるべき姿

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2024年にメジャーデビュー30周年を迎えるGLAYと、
25周年を迎えるポルノグラフィティ。TERUと新藤晴一が、バンドへの思いを語り合った。
聞き手は「9の音粋」水曜日DJの藤田太郎が務めた。

G L A Y & ポ ル ノ 、若 手 時 代 の 交 遊 録
            

ー2人はこれまで、仕事やプライベートでの交流はありましたか?

新藤 TERUさんとは共通の友人がいて、この対談の前もその話で盛り上がっていたんですよ。

TERU 以前はよく焼き肉屋に行ったりしていたよね。フェスでの共演となると、2006年にサザンオールスターズの桑田佳祐さんが発起人となった「THE 夢人島 Fes.」が最初かな。あのときはよく遊んだね。

新藤 HISASHIさんがハジけていたときですね(笑)。

TERU あのときは申し訳なかった(笑)。もう17年も前の話だから言ってしまうけど、HISASHIが福山(雅治)さんにめちゃくちゃ絡んでいて。「なんで?」っていうくらい(笑)。

新藤 HISASHIさん、パーティー会場で1mくらいの高さの段から落ちそうになっちゃって(笑)。

TERU ベロベロに酔っぱらっていたからね(笑)。

新藤 サザンオールスターズや福山(雅治)さんなど、先輩がたくさんいたので、緊張してガチガチになるか、お酒を飲んでしまうか、どちらかしかなかったんですよね。昭仁も飲んでいた気がするなぁ。

TERU 当時はGLAYもポルノもまだ若手だったからね。

ー台風の影響で中止になった、19年10月のBAYFM開局30周年記念ライブでも、共演予定でした。

TERU あのときはGLAYの「彼女の“Modern…”」で晴一君が入ってくるプランだったんだよね。

新藤 そうですね。ギターをコピーしていて凄く楽しかったことを覚えています。

ー24年にはGLAYがメジャーデビュー30周年、ポルノグ ラフィティが25周年を迎えます。長期間活動していく上で、 ターニングポイントになったことを挙げるなら?

TERU 僕らはよく1999年に海浜幕張で行った20万人ライブと言われることが多いけど、GLAYが出身地・函館の街とともに歩み始めた13年を挙げたいと思います。それ以前から函館では小規模なライブを何度も行ってきたけど、この年に函館で大規模な野外ライブを行ったことで、僕が大好きなこの街をもっと大事にして、盛り上げていきたいという思いが芽生えたんです。17年には函館から音楽を発信したいという思いで、函館にスタジオを作ってレコーディングをしていて、今年は改めて地元をゆっくり見直してみたくて、8月の間、函館に滞在していました。

新藤 GLAYは函館の英雄ですからね。街の中、普通に歩くことできるんですか?

TERU 全然歩けるよ。街のみんなと仲良しで「TERUさん帰ってきたぞー。おかえりー」「ただいまー」みたいな感じ。「これ食べて」って、おみやげいっぱい貰っちゃう(笑)。

新藤 僕らも地元・因島で何度もライブを行ってきたし、それはとても大きな経験になったのですが、音楽的なターニングポイントとしては、07年頃から作詞、作曲を自分たちでやっていくようになったことです。「アポロ」「ミュージック・アワー」など、みんなが知っている初期の代表曲はプロデューサーである本間昭光さんの作曲によるものが多く、文化祭バンドだった僕たちがプロになるにあたって、下駄を履かせてもらったという、どこか後ろめたい思いがありました。GLAYが独立して、自分たちの力で道を切り拓いていく姿にも影響を受けたし、それこそがバンドのあるべき1つの姿なんじゃないかと思います。

ーバンド活動を長く続けていく上で、モチベーションと なっていることは?

新藤 この質問、後輩からよく聞かれませんか?

TERU そうだね。GLAYの場合はメンバーがやりたいことを一切否定しないということが、モチベーションにつながっているのかもしれない。誰か1人でもそれをやりたいなら、全員で力を合わせてとにかくやってみる。たとえうまくいかないことがあっても、現状を楽しむことができるのが、GLAYのいいところだと思う。

新藤 GLAYはまだ完成形ではないということですか?

TERU 完成形ではないし、まだまだ可能性があると思う。昔は作詞、作曲をTAKUROが引っ張ってくれていたけど、最近はJIRO、HISASHI、僕が担当するケースが増えていて。そうなると、TAKUROはジャズのような、これまでとは違うジャンルの音楽に挑戦できるようになって、自分の音楽的欲求を満たすことができる。また、最近は海外にも目を向けていて、17年にイタリアのヴェネチアでソロライブをやってみたら、それが凄くおもしろくて。

新藤 海外でソロライブをやるなんて、バンド結成当初は思いもしなかったですよね。

TERU もちろん。憧れていたBOØWYやプリンセスプリンセスのように、日本武道館でライブをやれるバンドになることが夢だったからね。晴一君はどう?

新藤 僕は子どもの頃からポルノが好きで、ずっと聴き続けてくれているファンにがっかりされたくないという思いが、長く続けるモチベーションになっています。僕は中学生の頃から村上春樹さんの作品が大好きで、強い影響を受けています。村上さんが今もなお新刊を出し続け、読者を楽しませてくれているように、ポルノのファンにもいつまでも僕たちの新曲を楽しんでもらいたいし、ポルノが好きで良かったと思ってもらいたいんです。

TERU わかるよ。僕も同じだよ、その思いは。

新藤 思春期の頃に出会った音楽の影響は、本当に大きいですからね。これはきっと、長年活動しているバンドが負う“責任”なんだと思います。


ラ ジ オ の A to Z を BAYFM で 学 ぶ
            

ーラジオの収録、生放送時に意識していることは?

TERU 放送時間が23時からなので、リスナーであるテルミーっ娘はもちろん、湾岸線を走りながら聴いているドライバーが、ふと笑えるような瞬間をお届けできればと思いながら、番組作りをしています。雑談が好きなので、リスナーと楽しい時間を共有するということが、僕のポリシーかもしれません。

新藤 僕の番組では車中泊専門誌の編集長やファッションディレクターなど、さまざまな道の専門家をゲストに招いています。リスナーには番組を通じていろんな世界があることを知ってもらいたいし、僕が今、興味があることをシェアできることが、ラジオのいいところだと思います。

TERU 95年にはじめてBAYFMで担当した番組「Music Pulse on Tokyo Bay※」は、今とは違う生放送の音楽番組。海浜幕張の本社スタジオにあるCDライブラリーからたくさんのCDを借りてきて、聴き込んだ上で選曲していました。こ れが少しプレッシャーになってしまって、もっと楽しい番組にしたいという思いを伝えたところ、96年10月から今のスタイルの番組がスタートしたんです。

ー番組で思い出に残っているエピソードは?

新藤 ポルノはデビュー前の99年7月から、BAYFMで「限界ポルノラジオ」という番組をやっていて、03年4月に僕がDJの「カフェイン11」が始まってからも変わらず、ずっと同じディレクターが担当しているんです。99年9月のデビュー後、忙しくなったあるとき、昭仁の「また来週も聴いてくださいね」という言い方がおざなりに感じたのか、ディレクターからやり直せと言われたことがあって「。リスナーへの感謝の気持ちはきちんと伝えなさい」と叱責され、ラジオとは何たるかを僕らはBAYFMで学びました。

TERU 厳しく叩き上げられたね。これは千葉の放送局であるBAYFMならではだと思うんだけど、僕らが上京してデビューする3年くらい前、千葉の水道屋で働いていたことがあって。そのとき、一緒に働いていた友達に会いに行くということを、番組でやったことがあります(笑)。行徳に行って「ここのラーメンおいしかったよね。ちょっと入ってみる?」みたいな(笑)。

ー今後はどういう番組にしていきたいですか?

TERU BAYFMの重鎮には、今後も自由にやってくれとお墨付きをもらっているので、これからも自由にやらせてもらいます(笑)。番組は今年で27年目なので、30年を目指します。

新藤 TERUさんの番組と函館のスタジオに僕を呼んでくださいよ。

TERU ぜひ!ギター弾きに来てよ。釣りもやろうか(笑)。

※92年4月~01年3月まで放送していた番組。95年4月~96年9月、GLAYが水曜日のDJを担当していた。



Interview:Taro Fujita

Text:Takahiro Shibayama

Photo:Seiya Kawamoto


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